◉ 出汁文化は昭和初期に
一般紹介され、戦後花開く。
和食料理人の野﨑洋光さんは、古(いにしえ)から続く日本料理の文化に対し、料亭等で用いられてきた「出汁を取るという手法」が「一般に向けて初めて紹介されたのは昭和7(1932)年」頃だと言います。
平成30(2017)年に『主婦之友』創刊100周年記念で発刊された『ニッポンの主婦 100年の食卓』(主婦の友社)という記念誌があります。
紐解くと、「当時(大正時代)、主婦の仕事のなかで料理はさほど重視されていなかった」「ほぼ毎日同じものを食べていました。ごはんとみそ汁と漬け物と、あと1品あるかないか。着るもののほうが『ないと困る』ので、当時の主婦雑誌は裁縫記事のほうが目立ちます」とあります。
さらに「昭和6(1931)年頃から婦人雑誌は付録合戦を開始」「その目玉の一つが料理の本」で、「掲載されているのはハイカラな西洋料理、和の懐石料理、お菓子」「上流階級の女性たちは食べていたかもしれませんが、多くの主婦にとっては初めて見るものがほとんど」とあり、野﨑さんのお話と合致します。
「その頃の家庭には料亭のように出汁を取る文化はありません。一方で、汁の中に煮干を入れ、鰹の削り節を入れて、それを引き上げずに入れっぱなしにして煮出して、そのまま食べるような文化はありました」と野﨑さんは振り返ります。
「そもそも江戸時代に『和食』という言葉はありません」と野﨑さんは微笑みます。それは「明治維新以降に生まれた造語」だと。海外から入ってきた料理に西洋の「洋」をつけて洋食と呼んだことに対し、それと区別するために従来からある日本の料理を「和」の食、和食と呼ぶようになったに過ぎません。
「同じように『出汁』というものに対して、注目しようとか、させようとする意識は、戦前はなかったはず」と野﨑さんは考えます。出汁を取ってうま味を抽出するという料理人の常識を、広く世間一般に知らしめる必然性も必要性——ニーズもなかった、ということでしょうか。
「出汁を取る文化が家庭に定着し始めたのは戦後のこと。昭和30年代、戦中戦後の混乱を乗り越え、日本がすこし豊かになってからです」と続けます。「辻留さんの旦那さんがテレビに出て、日本の伝統料理の普及に尽力したことが大きかったと思います」
この「辻留さんの旦那さん」とは、京都発祥である茶道の裏千家とともに歴史を刻む老舗の料理店『懐石 辻留』の2代目主人・辻嘉一(つじかいち)さんのことで、「テレビ」とはNHKで昭和32(1957)年より今日まで放送されている『きょうの料理』のこと。放送当初、テレビの普及率は10%にも届いていませんでしたが、その3年後に44%、5年後に88%、10年後には96%になっています。
「テレビにプロの料理人が出て、その舞台裏——プロの世界では当たり前だった出汁を取ることを広めました。ですから家庭で出汁を取る習慣と申しますか、文化が定着したのは、日本料理の歴史から見れば、つい最近のことです」
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知っているようで知らない出汁の世界。次回「出汁の常識・非常識。プロの料理人が明かす真実とは?」に続きます。