第5回:出汁の実践
おいしい出汁の取り方。
味の基本であり、決め手でもある出汁。その「おいしい取り方」については諸説あります。
たとえば、昆布と鰹節を組み合わせた一番出汁。
昆布の取り方一つにしても、「煮出し過ぎはNGで、湯が泡立ってきて沸騰する直前に引き上げるのが良い」とする料理人がいます。
と思えば、「うま味成分のグルタミン酸とアスパラギン酸がもっとも溶出されやすいのは60℃前後であり、この温度を守りながら1時間加熱するのが化学的にも正しい」と解説する専門家もいます。
「いやいや、火にかけるなんて不要。水出し法こそ、あっさりとして澄んだ一番出汁が取れる、至高にして究極の方法だ」と断言する評論家もいます。
おいしい出汁の取り方とは、一体何でしょうか?
「知っているようで知らない出汁の世界」。
今回の第5回は、この連載の最終回です。おいしい出汁の取り方について、和食料理人の野﨑洋光さんにお伺いするとともに、このシリーズをまとめてみました。
◉ 野﨑洋光:Profile
のざき ひろみつ 1953年福島県石川郡古殿町に生まれる。武蔵野栄養専門学校卒業後、東京グランドホテルの和食部に入社。5年間の修行を経て八芳園に入る。1980年に東京・西麻布の「とく山」料理長に就任。1989年に南麻布「分とく山」を開店、永年にわたり総料理長を務め、2023年末に勇退。また、書籍、テレビなど各種メディアを通して、調理科学、栄養学をふまえた理論的な料理法に基づくわかりやすい和食を提唱。著作多数。
◉ 80℃のお湯に、
昆布と鰹節を入れて1分待つ。
ここに野﨑洋光さんが著した料理本があります。
『NHKすくすくネットワーク 和の離乳食 本物の味を赤ちゃんから』(日本放送協会、2002年9月15日第1刷発行)。「昆布とかつお節でだしを取る」と題し、以下のような手順が示されています。
1.
なべに水と昆布を入れ、時間があれば、しばらくおいて弱火に10分ほどかける。時間がなければ、すぐに火にかけてもよい。
2.
煮立てると昆布の雑味やぬめりが出るので、沸騰直前に昆布を取り出し、そのまま煮立つまで火にかける。(以下略)
「時間がなければ、すぐに火にかけてもよい」と補足するあたりが、新米ママさんに対する思いやり——野﨑さんらしさを感じさせます。そして近年では、さらに簡略化されています。
「80℃のお湯に、昆布と鰹節を入れて1分待つ」。これだけです。
しかも、「ぴったり80℃じゃなくてもいいのですよ」と付け加えます。「70℃くらいでもいいのです」と。
「いちいち、温度計で測ってなんかいられませんよね。鰹節を入れた時、それが沈むか浮いているかという、ちょうど中間ぐらいにいるくらいの目勘定です」
◉ 沸騰したお湯を80℃まで冷ます
簡単で素早い方法とは?
野﨑さんは、永年日本料理店で総料理長を務めるとともに、書籍出版や料理番組出演に加え、料理教室でも様々な人の声に耳を傾け、直に教えてきました。
出汁の取り方は日々の習慣です。また、水出し法も優れた手法ですが、一晩の浸漬を要します。
より実践的でわかりやすい料理法を唱えてきた野﨑さんにとって、「80℃のお湯に、昆布と鰹節を入れて1分待つ」という出汁の取り方は、現代社会の忙しいライフスタイルを考慮した、シンプルな回答と言えるでしょう。
もちろん、これが唯一無二の方法ではありません。
たとえば、1分ではなく、3分待ってみる。今日は時間があるので5分待ってみようか、とか。加減をいろいろ試してみる。
そうした経験のなかで自分の気持ちにぴたっとはまる、おいしい出汁の基準が定まるはずだと野﨑さんは言います。
さらに、「沸騰したお湯を80℃まで冷ます、簡単で素早い方法がある」と言います。それは「ガラスボウルに移して1分待つ」こと。
ガラスボウルではなく、ステンレスのボウルでも、大きめの急須でも構わないそうです。その日の室温や空調にも左右されますが、1分待てば大体80℃になると言います。
実は、野﨑さんのそうした考えが製品化された例があります。
冒頭に紹介した著書の同番組『NHK すくすくネットワーク』(現在は『すくすく子育て』に改題)に野﨑さんが出演された時、「出汁が上手に取れない」というお母さんたちの声を聞き、野﨑さん自らが考案し、製品化されました。
写真は、そのポットです。有田焼で、深めのこし網に鰹節と昆布を入れ、沸騰したお湯を注いで、1分待つだけでおいしい出汁が取れるとたちまち評判になりました。
◉ この連載のまとめ
最後に、この連載における野﨑さんの発言をまとめてみました。
「出汁とは、ほどよい旨味を足すということです。うま味を感じなければ足し、多すぎたら引くということだけ覚えていただけたらラクだと思います。自分の味覚を信じ、足すか引くかの上下を、ご自身の舌で覚えておくといい」
「たとえば吸い物用の出汁を作る時、削り節を多くすれば、色は濃くなりますが、味のさわやかさは失われます。そしてある程度の濃さを超えてしまうと味が感じられなくなってしまうことは皆さん意外と知らない」
「ある水準を過ぎてしまうと、食材の持ち味が出汁の後ろに隠れてしまう。それでは本末転倒です。ですからプロの料理人はその寸前で止めます。そのギリギリの絶妙さがプロの仕事だと思います。私の場合は、基本的に一般の方の料理に比べて半分以下のあっさりとした味わい、淡味(たんみ)を追求しています」
「塩分濃度で言うと、0.8%前後ですね。でも、塩分濃度チェッカーで、いちいち測ったりはしません。皆さんも測る必要はありません。それはちょうど人間の体液の塩分、いわば生理食塩水と同じ塩分濃度だからです」
「濃くもなく、薄くもなく。一椀をするすると吸うように飲み干せる味が、カラダが欲している塩分濃度であり、ちょうどいい味になります」
「西洋料理や中国料理の出汁は、肉や骨、あるいは魚やあらなどを用い、香味野菜などを加えて、水から長時間煮込んで出汁を取ります。その出汁は、日本の出汁と比較すると、色が濃く、味も濃いものです。時には油脂が浮くこともあります」
「一方、日本の出汁は、長時間煮込む必要はありません。僕の場合は、お湯に鰹節と昆布を入れて1分です。ほとんど色を感じず、澄んでいて、綺麗です。口に含むとスーッとからだに入ってきます。味わいがあり、その余韻は深く残ります。それは<淡味>(たんみ)と呼ばれるものです」
そして野﨑さんは基本五味に淡味、辛味、渋味を加え、さらに大切な、忘れてはならない味があると言います。それは「人間味」だと。
「たとえば、夫や子供の体調がすぐれない日、お母さんは『まずは消化しやすいものを』とか『何か元気のつくものを』と考え、腕をふるいますよね。人間味は、目的に応じた味と言いますか、食べる人のことを思う気持ちが、料理する人の味となってあらわれます」
そして、おいしい出汁の取り方。「80℃のお湯に、昆布と鰹節を入れて1分待つ」。これだけです。
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ご愛読ありがとうございました。